自己満足は正義だ!

独り言を綴っています。

槇原敬之 「三人」

 

1992年リリースアルバム「君は僕の宝物」収録曲。

 

 

君は僕の宝物

君は僕の宝物

 

 

 

 

びっくりする程ちっぽけなカバン1つで5月の雨の日。僕は東京の街におりた。

心細くはなかったよ少し年上のルームメイトとその彼女と僕で暮らしていたから。

まだ彼女がいない頃はまよなかに大きなヴォリュームでDoobieのライブをよくきいたね。

そして彼女がやってきてまるで2人両親のように夜遅い僕を待っていたっけ。

彼女はデザイナーをめざし彼は心優しいエンジニア 。

そして僕は誰かのために歌い生きていくことを決めた。

僕もあれから2回目の引っ越しをして何だかんだとつらいこともたくさんあるけれど。

そんな自分を一番助けてくれるのはあの三人で過ごした楽しい思い出なんだ。 

 

 

※1番歌詞のみ抜粋

 

 

こう見ると、歌詞というより詩、に見える。

というより、詩にしか見えない。(作文にも近い)

 

韻を踏むわけでもなく、出来事を綴ってあるだけ。

 

今の時代にはあまり考えられない歌詞なのではないか、と思う。

 

発声の響き(細かく言うと破裂音、であったり母音であったり)や、韻を踏む

繰り返しメロディーのまとまり等、聴き易さ、キャッチーさを求める事での

歌詞の制約を完全無視している。

 

なのに、(であるからこそ)

 

その情景や3人の関係性、人柄や、寂しさ切なさといった感情がこれでもか

という位どストレートに伝わってくる。

 

これぞ、槇原敬之世界の真骨頂なのではないかと思うのである。

 

他の収録曲には、

  • もう恋なんてしない
  • 遠く遠く
  • 冬がはじまるよ

といった槇原敬之代表作がたっぷり入った、云わば絶頂期の言っても

過言ではない脂たっぷりのアルバムとなっている。

(てっぺんまでもうすぐ、という酸っぱい曲もたまらなく良い)

 

 

さてさて、小学校の頃、自分は槇原敬之の曲に大いに魅了されました。

 

振り返って考えると、分かりやすい歌詞、聴きやすいメロディー、よく

テレビでかかっていた、からなんだと思います。

 

隣に座る女の子と、どの曲がオススメか、なんて会話をしていた事も

思い出されます。

 

元来、歌詞に興味がありません。

詩を読んでも、世界観として判断するし、ボーカルを音として、

曲自体を一つのパッケージと考え聴き入る派です。

(賛否というか、否の方が多いと思うし、時間を掛けて考えた歌詞

をあまりフィーチャーして聴かないのもアーティストに失礼だな、

とも思うのですが。。。)

 

唯一具体的に情景が浮かぶのが槇原敬之の曲なんですよね。

 

以前の記事に書いた、癖が無い無垢な時代に聴いた事も影響して

いるとも思います。当時小学生でしたし。

 

あまりアンテナを張らなくなってしまった事や、商業臭のする業界

への嫌悪感等もあり最近の曲を漁る事をしていないのであれですが、

昔の曲って良かったな、というおじさん意識が芽生えてきている自覚

を持ち始めた今日この頃。

 

自然と手を伸ばす(耳を傾ける)音楽の選択肢が狭まっている気がします。

「選択肢という母数自体」圧倒的に増えているのにも関わらず。

 

青春期、多感期をとっくに過ぎたからなんですかね。

 

音と匂いって、記憶と密接に関わっていて、当時の記憶を何気なく

呼び起こす大切なセンスだと思います。

 

その効果にドキドキしたり、甘酸っぱい思い出が蘇ったりと、あるなら

あるだけストックしたいけれど、いかんせんアンテナが鈍くなってきて

いるので、もったいないなと感じます。

 

というわけで、マッキーから感じた事について、でした。

 

 

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